日本酒の歴史 |
今日「日本酒」とも称される清酒が、米を主原料として造られ、しかも長い伝統をもった酒であることは誰もが知っているが、その歴史ということになると知られていない部分がかなりある。 日本列島に稲作文化が渡来したのは今から2,200〜2,300年前であるから、日本における米を原料とした酒造りはその頃までに逆のぼることができる。ところが、それ以前にも日本列島に酒造りがなかったわけではない。たとえぱ「ガマズミ」とか「カジノキ」等の「液果酒」および雑穀・木実類からの「くちかみ酒」等が造られていた。 ここで着目しなければならないことは、液果類のように発酵性糖分を含むものは野生酵母さえ存在すれば、アルコール発酵が営まれて酒になるが、木実とか雑穀類等はデンプンが発酵性糖分にまで分解されなければ、たとえ酵母が存在しても酒にはなり得なかった。この際、デンプンを発酵性糖分にまで分解する糖化作用に閑与したのが唾液アミラーゼであり、またカビの糖化酵素であった。米を原料としたカビ利用の酒造りの出現によって、唾液利用の酒造り、いわゆる「くちかみ酒」は「液果酒」とともにその姿を消すが、それは米と金属とに代表される弥生文化が日本列島に広がるころ、紀元前後から1〜2世紀の頃であった。こうして日本列島にカビ利用の米の酒が定着するのである。「古事記」「日本書紀」「風土記」等に見られる酒の記事は、こうした時代背景を背負っている。 日本の酒造りの技術的記事は、10世紀の初めの「延喜式」まで待たなければならない。ここで注目すべきは「弘法」で造られた「御酒」造りである。これは蒸米、麹、水を仕込んで発酵させ、熟成したところで濾過し、次に濾過した液に蒸米と麹を仕込む。この醪が熟成すると再び同様な方法で仕込み、この操作を4回も繰り返して造る方法である。これは間違いなく「澄酒」であったろうが、今日の清酒造りと全く類型を異にしている。 今日の清酒の原型の記録が見られるのは小野教授の発見された「御酒之日記」、「多閉院日記」等である。これらは15〜16世紀における「僧坊酒」の製法を記録したものであり、ここに記載された方法がこの時代に実施されていたとすれば、現代の清酒の製法に近い方法がこの時代すでに行われていたことになる。特に「多聞院日記」の天正6年(1578年)の記録に「諸白」の記述が見れるが、諸白とは麹米、掛米の両者を精米して造った酒の意味である。これに対して、掛米だけ精米して麹米に玄米を用いて造った酒を片白という。このように原料米も現代の清酒に近いものであれば、製成酒の味も当然のことながら現代の清酒に近いものであったと想像される。 その後、南都諸白から伊丹諸白へと、近世酒造業の新しい時代を迎えることになる。それはたんに新しい産業の勃興であるばかりでなく、戦国動乱期を経てうちたてられてくる新しい秩序−社会経済体制への胎動でもあった。幕藩体制の確立とともに、近世酒造業は展開するが、その前期には城下町や都市を中心にして、いわゆる都市産業としての性格をもち、幕府の強い統制をうけながら発展した。酒造技術は伊丹を中心に、摂津一円で広く諸白つくりが伝播していった。それは米と水と風土に適合した独自の技術を生み出し、当時百万都市江戸の発展に呼応して、江戸積酒造業として急速に発展していったのである。 しかし幕藩体制のゆきつくところ、石高制の矛盾は都市と農村の社会的分業を深化させ、米の商品化とあわせて、米価調節としての酒造業が重視されるようになった。それは都市酒造業にかわって農村酒酒業の、自由にして活発な展開へと導いていった。この幕藩体制の行き語りのなかで、在方商人達は企業家型の酒造家を輩出していった。しかも、農村で小作米を原料とし、小作人を雇用して、せいぜいその近隣を販路とする地主型の地酒酒造業とくらべると、企業家型の酒造家は全く異なった類型に属していた。かれらは、なによりも江戸市場開拓に積極的で、独白の輸送手段たる檜廻船を開発してゆく一方、水車精米と寒造りに集中した近代的な清酒への道を開拓していった。明治以後のわが国における酒造業近代化への先駆的な役割を演じていったといえよう。 |